二つのキャリア、ひとつの情熱。
エリン・マッカーシーのボウリング人生
どれだけ夢中になれるものに出会えるか、それは人生の豊かさを決める鍵かもしれません。プロボウラー、エリン・マッカーシーの人生は、まさにその象徴です。
彼女は看護師としてのキャリアを持ちながら、プロの舞台でも戦い続けてきました。順風満帆な道のりではありません。大学チームからの離脱、進学先の突然の閉鎖、最下位からの逆転優勝……。どんな困難に直面しても、彼女は「自分らしく」歩むことをやめませんでした。
その背景にあったのは、ただひとつ。「ボウリングが好き」という純粋な気持ちと、「支えてくれる人たち」への感謝の想いです。
このブログでは、エリン・マッカーシーという一人のアスリートが、いかにして逆境を乗り越え、夢をつかみ、そして今も進み続けているのかを、彼女の言葉とともに丁寧に追っていきます。
■ 「コーチなんていらない」と思っていた高校時代
高校時代、エリン・マッカーシーはすでにボウリングに情熱を傾けていましたが、自分の技術にはどこか自信を持っていました。そんな彼女に対して、両親はある提案をします。
「個人コーチをつけたらどうか?」
その言葉を聞いたとき、彼女の反応は典型的なティーンエイジャーそのものでした。
「私は全部わかってる。コーチなんて必要ない。」
当時の彼女にとって、自分の限界を認めることは難しく、自信と若さが入り混じった“無敵”な時代だったのです。
しかし、その思い込みはすぐに覆されることになります。彼女のコーチとなったのは、ネブラスカ大学出身の元選手、ジェイミー・マーティン。彼女は、ディアンドラ・アサバスやアマンダ・ブロイらと肩を並べて戦った実力派であり、エリンにとって初めて出会う「自分より遥かに先を行く存在」でした。
指導を受ける中で、エリンは自分がまだ知らない世界があることを実感します。「すでに知っている」と思い込んでいた技術や姿勢が、いかに浅かったかを痛感する日々。
ジェイミーの存在は、技術的な指導を超えて、エリンの進路にも大きな影響を与えました。憧れを抱いた彼女は、ジェイミーの母校であるネブラスカ大学を進学先に選ぶことになります。
■ ネブラスカ大学での挫折と「自分らしさ」の喪失
ネブラスカ大学でのスタートは、順調に見えました。2008年からチームに所属し、全米屈指のレベルを誇る環境で、エリンは仲間とともに一歩一歩成長していきます。
しかし、次第に彼女は変わっていきました。
「気づいたら、自分が自分じゃなくなっていた。」
チームのスタイルに馴染もうとするあまり、彼女がそれまで築き上げてきたフォームやリズム、メンタリティは徐々に崩れていきます。指導者の方針、求められる役割、勝つためのスタイル──それらに順応するうちに、かつて感じていた「自分らしいプレー」が遠ざかっていったのです。
そんなある日、彼女は仲間たちとともにウィチタで行われた大学対抗戦を観戦します。そこにいたのが、クララ・ゲレロとサンドラ・ガンゴラという世界でも屈指の選手たち。
彼女たちのプレーを見た瞬間、心の奥で何かがはじけました。
「私は、あんなふうにボウリングをしたかったんだ。」
そのとき、彼女はチームメイトにこう告げます。
「私、ネブラスカを辞めようと思う。」
冗談だと思った人もいたかもしれません。しかし、彼女の心は決まっていました。自分を取り戻すために、大きな決断を下したのです。
■ ダナ大学閉校。絶望からの再出発
ネブラスカを離れたエリンが次に選んだのは、ネブラスカ州の小さな大学「ダナ・カレッジ」。規模は小さいながらも、親しい仲間や信頼するコーチと共に、新たなボウリングプログラムを立ち上げる予定でした。彼女にとって、それは「自分らしさ」を再び見つける希望の場でもありました。
ところが──
夏のある日、いつものように水曜夜のPBAエクスペリエンスリーグに参加していたエリンのもとに、衝撃のニュースが飛び込んできます。
「ダナ大学が閉校する。」
原因は、認可取り消しと資金難。キャンパスツアーも終え、寮も決め、授業登録まで完了していた矢先の出来事。信じられないという表情で、エリンと友人たちは顔を見合わせます。
「これは…現実なの?」
全てが白紙に戻る。そんな絶望のなか、彼女たちを救ったのが、フリーモントにあるミッドランド大学でした。ダナ大学に入学予定だった学生アスリート全員に門戸を開いたのです。
エリンはそこに希望を見出し、新たなチームで奮闘。そして、最後の年には全国大会のテレビ放送にまで進出し、準優勝という輝かしい結果を残します。
「もしかしたら、最初からここに来る運命だったのかもしれない。」
すべての挫折と選択が、今の彼女を形作っていたのです。
■ 看護師の道へ、そしてツアー再開
大学卒業後、エリン・マッカーシーが選んだのは、意外にもボウリングではなく看護師としての道でした。彼女は12ヶ月間の集中看護プログラムに挑戦し、見事に修了。2013年には正式に看護師としての資格を取得します。
この期間、彼女は一時的にボウリングから距離を置いていました。ちょうどその頃、プロ女子ボウリングツアー(PWBA)は活動休止状態にあり、大規模な大会も数えるほどしか開催されていなかったのです。
「タイミングとしては悪くなかった。ちょうど良い“小休止”だったと思う」
そう振り返る彼女は、医療現場に立ちながらも、どこかで心の奥にボウリングへの想いを抱き続けていたのでしょう。
そして、2015年――
ついにPWBAツアー復活の報が届きます。
かつてテレビで観ていたあの舞台が、再び動き出す。幼い頃から夢中で見ていた選手たちが活躍していたあの場所に、自分も立てるかもしれない――。
エリンは、すでに看護師としてのフルタイム勤務をこなしていました。練習時間は限られ、他の選手たちのように「競技にすべてを捧げる」という生活はできない。しかし、それでも「やってみよう」と決意します。
「看護師の仕事はまた戻れる。今、このチャンスを逃したくなかった。」
ここから、彼女の“二足のわらじ”のプロボウラー人生が始まります。
■ 初優勝の感動、そして確信
そして訪れた2018年、「WWAルイビルオープン」。
それはエリンにとって、初のPWBAタイトルを手にする記念すべき大会となりました。
この勝利が特別だった理由のひとつは、親友でありルームメイトでもあるジョジー・バーンズが実況を担当し、優勝トロフィーを手渡してくれたこと。
「この瞬間を、彼女と分かち合えたことは、一生の宝物です。」
何度もTV決勝に進出しながら、一度も勝利できなかった彼女にとって、この優勝は「私はここにいていいんだ」と感じさせてくれる瞬間でもありました。
ボウリングの世界では、ステップラダー形式のテレビ決勝に進出するだけでも非常に困難です。しかし、そこに立ち、勝ち上がるとなると、精神的プレッシャーは計り知れません。彼女はこれまで幾度となく敗戦を経験し、そのたびに心の奥底で「私は本当にここにふさわしいのか」と自問してきました。
しかしこの勝利が、そんな迷いをすべて吹き飛ばしてくれたのです。
「ようやく、自分がプロとして認められた気がした。やっと、胸を張れる瞬間が来た。」
とはいえ、喜びと同時に新たな不安も生まれました。
「これは“まぐれ”じゃないのか? もう一度勝てるのか?」
勝利の先には、さらなる挑戦が待っていたのです。
■ 引退を考えた年に、USオープン優勝
2022年――
この年、エリンは内心、「ツアーを少し休もうか」と考えていました。
練習時間が限られ、フルタイム勤務との両立に疲労も蓄積していた。ツアーで活躍する若手選手たちの勢いに、気後れする瞬間もありました。
「もう、ここに居続ける意味があるのだろうか?」
そんな思いを抱えながら出場したのが、女子ボウリング界で最も過酷とも言われる「USオープン」でした。
しかし、大会初日の彼女は最下位スタート(−99ピン)という最悪の展開。誰もが脱落を予想したその位置から、彼女は信じがたい集中力と忍耐で巻き返し、予選を通過。さらにマッチプレーでも勝ち進み、ついに優勝決定戦の舞台へと駒を進めます。
「自分でも信じられない気持ちでした。何がどうして、ここまで来られたのか……」
決勝戦では、かつての自分とは違うメンタルで挑みました。相手のスコアを気にせず、自分の投球にだけ集中する。そして――勝利。
USオープン優勝。
これはただの1勝ではなく、プロボウラーにとって「キャリアにおける勲章」とも呼べる、最も栄誉あるタイトルのひとつです。
「もう辞めようかと思っていた自分が、いまここにいる。」
それは、運命のいたずらでもあり、努力の賜物でもありました。そして何よりも、「あきらめないことの強さ」を証明する瞬間でした。
■ ボウリングと看護、どちらも私の人生
多くのアスリートは、競技にすべてを捧げることを選びます。日々の練習、遠征、コンディション管理——プロとして成功するには、当然の道です。
けれど、エリン・マッカーシーは違いました。
彼女は看護師としてのキャリアを同時に歩むことを選びました。命に向き合う現場で働きながら、ツアーの舞台で戦い続ける。いわば“二重生活”とも言えるその道は、決して楽なものではありません。
「よく、どうやって両立してるの?って聞かれるんです。でも、私にとっては“どちらも私の一部”なんです。」
彼女にとって、看護師として働くことは、単に生計を立てる手段ではありません。それは、人の命に寄り添い、支えるという責任ある仕事であり、自身の人格を形成してきた大切な要素。
一方で、ボウリングは彼女の情熱であり、自分自身を表現する場所。
「どちらかを捨てることなんて、私にはできませんでした。」
練習量では他の選手に劣るかもしれない。それでも、彼女は効率的なトレーニングと、揺るがぬメンタルで結果を残し続けてきました。
大切なのは「自分のペースを守ること」。そして「仕事があるからこそ、ボウリングにも真剣に向き合える」という、彼女ならではのバランス感覚が、今の成功につながっています。
■ 友情こそが、ボウリングの真の財産
エリンは、数々のトロフィーやメダルよりも大切にしているものがあります。それが、「友情」。
彼女は語ります。
「勝つことも嬉しい。でも、それ以上に価値があるのは、ボウリングを通じて築いた人間関係。」
ボウリングの世界は、広いようでいて、とても小さなコミュニティ。ジュニア時代、大学時代、そしてプロの舞台と、何年経っても変わらず繋がっていられる人たちがいる。そんな仲間の存在が、エリンの心の支えとなってきました。
親友ジョジー・バーンズとの関係は、その象徴です。彼女が初優勝したとき、トロフィーを渡してくれたのがジョジーだったことは、エリンにとって「一生忘れられない瞬間」でした。
「誰かと一緒に笑えること、悔しさを共有できること、支え合えること。それが、ボウリングを続けてきた最大の理由かもしれません。」
勝ち負けを超えたところにある、人との繋がり。それこそが、彼女がボウリングから離れられない理由です。
■ 女性アスリートの未来のために
2015年のPWBAツアー再開以降、女子ボウリングは少しずつ、しかし確実に注目を集め始めました。試合は満員御礼、予選会(PTQ)すら定員に達するようになり、かつて“マイナー競技”とされていた女子ボウリング界が、大きく変わり始めています。
エリンはその最前線に立ちながら、変化の波を肌で感じてきました。
「私たちの世代が、今の高校生や大学生たちに夢を見せられるようになった。それが、何より嬉しいんです。」
彼女たちが若かった頃、プロとして生きていく“道”は曖昧でした。けれど今は違います。女子選手が“競技を続ける未来”を描ける環境が整い始めているのです。
女子スポーツ全体にとっても、この変化は重要なターニングポイント。エリンは、女子バスケットボールのスター選手ケイトリン・クラークのような存在が、すべての女性アスリートに与える影響力の大きさを強調します。
「私たちの努力は、次の世代の“当たり前”になる。」
だからこそ、彼女はボウリングという舞台に立ち続けるのです。結果を出すことも大切。でも、それ以上に、「誰かに夢を託される存在であること」が、今の彼女にとって最も大きなモチベーションなのです。
■ 終わりに:自分らしく、生きること
エリン・マッカーシーのボウリング人生は、決して一直線ではありませんでした。むしろ、何度も立ち止まり、迷い、転びながらも、それでも「もう一度だけ」と前を向いて進んできた人です。
名門チームからの離脱、進学先の大学の閉校、社会人としての現実との両立、そして「引退」の二文字が頭をよぎるほどのスランプ――。
それでも彼女は、自分の人生を“自分のスタイル”で貫いてきたのです。
「すべてをボウリングに捧げなくてもいい」
「看護師としても、プロボウラーとしても、どちらも私」
「限られた時間の中でも、自分らしく競技に向き合える」
この“柔軟で誠実な姿勢”こそが、エリン・マッカーシーの強さであり、多くの人が彼女に共感し、惹かれる理由でもあるのでしょう。
勝利の数よりも、立ち上がった回数。
称賛の声よりも、黙々と続けてきた努力。
そして、何より「自分であること」を大切にしてきたその選択の積み重ねが、彼女の歩みを美しいものにしているのです。
夢を追うことに年齢は関係ありません。
環境がどうであれ、「やってみたい」という気持ちに正直であれば、それはもう“始まり”です。
エリンのように、たとえ一歩が小さくても、迷いながらでも、自分に正直に生きる人こそが、最終的に自分だけの道を見つけられるのかもしれません。
だからこそ、彼女の物語は、すべての人にこう語りかけてきます。
「あなたの“やりたい”を、どうか諦めないで。」
自分らしく生きること。その価値と美しさを、エリン・マッカーシーはボウリングというレーンの上で、静かに、そして力強く証明し続けています。