ラトビアから世界へ
ダイアナ・ザビャロヴァ、ボウリングにかけた情熱の軌跡
「たまたま父について行ったボウリング場で、人生が変わった。」
そんな一言では言い尽くせない、ダイアナ・ザビャロヴァの物語。彼女は、ラトビアの小さな町で育ったごく普通の少女でした。10歳のある日、父親のリーグ戦に付き添って訪れたボウリングセンターで、彼女の心に火が灯りました。ゲーム終了後、父のボールを借りてレーンに立った瞬間、彼女はボウリングに恋をしたのです。
当時、ラトビアではボウリングというスポーツはまだまだ認知度が低く、世界レベルで活躍する選手などいませんでした。ですが、彼女には夢がありました。そして何より、勝ちたいという強い気持ちと、競技に対する純粋な情熱がありました。少年少女向けのユースプログラムへの参加、初めてのマイボール、海外から訪れたコーチたちとの出会い。すべてが彼女の中で「本気でプロを目指す」という目標に変わっていきました。
ラトビア代表としてヨーロッパ選手権や世界選手権に出場し、若くして国の歴史に名を刻んだ彼女は、その後アメリカ・フロリダのウェバー国際大学に進学し、さらなる挑戦をスタートさせます。全米の強豪と競い合いながら、個人としても、チームとしても数々の実績を残していくなかで、ダイアナはただの「才能ある選手」から「世界が注目する存在」へと進化していきました。
しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。コロナ禍による競技生活の中断、愛する祖母の死、心の健康を脅かすほどのプレッシャーと喪失感。それでも彼女は、支えてくれた家族と愛する人たちの力を借りて、再び立ち上がります。
このブログでは、そんなダイアナ・ザビャロヴァの情熱、努力、そして再起のストーリーを追いながら、ひとりのアスリートが夢を貫くとはどういうことかを描いていきます。
● ボウリングとの出会い — 小さなきっかけが人生を変えた
ダイアナ・ザビャロヴァのボウリングとの出会いは、華々しいものではありませんでした。始まりは、ただお父さんについて行ったボウリング場のベンチ。
父親は週に一度、仲間とともにリーグに参加する程度のカジュアルなボウラーで、特別な技術があったわけでも、競技として真剣に向き合っていたわけでもありませんでした。けれど、その時間は父にとっても、ダイアナにとってもかけがえのない“ルーティン”になっていました。
当時10歳だったダイアナは、ただ父の後ろ姿を眺めながら、ピンが倒れる音に耳を澄ませ、レーンの上を転がるボールの動きに心を奪われていきました。
「これはどんな仕組みで、どうやって上手にできるようになるの?」
その好奇心が、彼女を少しずつ“観客”から“プレイヤー”へと導いていったのです。
父がリーグ戦を終えたあと、空いているレーンでダイアナにボールを投げさせるようになった頃には、すでに彼女の心はボウリングの虜でした。
たとえフォームが未完成でも、ボールが思うように進まなくても、投げるたびに胸が高鳴る――その感覚は、他のどのスポーツとも違う“何か”を感じさせたのです。
さらに彼女は、テニス、空手、スケートボード、ダンス、ピアノなど、さまざまな分野で活動する好奇心旺盛な少女でした。けれど、ボウリングだけは、心の中で「特別な意味」を持ち始めていました。
そんなある日、運命を変える出会いが訪れます。
ボウリング場でダイアナを見かけた女性が声をかけてきたのです。
「子ども向けのユースプログラムを始めたばかりなんだけど、あなたも参加してみない?」
その言葉に迷いはありませんでした。
「もちろん!やってみたい!」
彼女はすぐにそのプログラムに参加し、すぐに頭角を現します。
コーチから父親に届いた言葉はこうでした:
「彼女は他の子よりずっと早く成長しています。すぐにでも本格的な道具とコーチングを始めるべきです。」
そしてそのときから、彼女の人生は「プロとしての道」に向かって歩み始めたのです。
● 国際的な挑戦の始まり — ラトビアから世界へ羽ばたいた一歩
ラトビアという国において、当時「プロボウラー」という存在はほぼ認知されておらず、スポーツとしての体系的な育成プログラムも存在していませんでした。つまり、彼女は前例のない道を進む最初の一人だったのです。
そんな中、運命的な出会いが再び訪れます。
オーストラリア出身のSid Allenと、ベネズエラ出身のReuben Geragosianという2人の国際的な名コーチが、ラトビアで若手育成プログラムを立ち上げるためにやって来たのです。
彼らはただ技術を教えるだけでなく、世界で戦うためのマインド、準備、姿勢までも伝えてくれました。
「この小さな国にも、世界を目指せる才能がある」
そう断言したのが、他でもない彼らだったのです。
ダイアナは、誰よりも練習熱心で、開館と同時にボウリング場へ入り、閉館時間まで投げ続ける日々を送りました。何よりも“楽しい”という感情が、彼女の努力を支え続けました。
「君には才能がある。一流になれる。」
この言葉を聞いたとき、彼女はまだ10代でしたが、その瞬間から世界を本気で目指す覚悟が芽生えました。
当時は、ラトビア国内に「海外遠征」や「国際大会への出場」といった仕組みが整っておらず、国際舞台に立つことは簡単ではありませんでした。しかし、彼女の成長と活躍により、国内のスポーツ行政も動き始め、ラトビア政府の支援を受けて国際大会へ出場する機会が増えていきます。
● ヨーロッパツアーと歴史的な功績 — 小さな国の誇りとして
やがて彼女は、ヨーロピアン・ボウリング・ツアー(EBT)への出場を果たします。このツアーは、ヨーロッパ各地で開催され、男女が同じ枠で戦う厳しい競技環境です。
つまり、ダイアナは男子選手たちと真っ向勝負をするというハードルの高い環境に飛び込んでいったのです。
それでも彼女は臆することなく、自分のスタイルを磨き、少しずつ結果を残していきました。
EBTでの経験は、彼女に「男女の区別なく、誰とでも競える」という大きな自信と覚悟を与えました。
さらに、チーム・ラトビアの代表として、ヨーロッパ選手権や世界選手権といったメジャー大会に出場。
そして、世界選手権でメダルを獲得するという快挙を成し遂げます。
これは、ラトビアのボウリング史上、初めてのメダル獲得であり、スポーツ界全体にとっても歴史的な出来事でした。メディアは彼女を「ラトビア初の国際メダリスト」として大きく取り上げ、全国的な注目を集める存在へと成長します。
「私は、ただ自分が楽しめる場所を探していただけだった。でも、気づけば“国の希望”として見られるようになっていた。」
この功績が、彼女にさらなる決意をもたらします。
「もっと高いステージへ行こう。もっと強い相手と戦いたい」――
その矛先が向かったのは、ボウリングの本場 アメリカ合衆国。
これから、彼女は新たな挑戦へと踏み出すのです。
● アメリカ大学ボウリングとの出会い — 世界の舞台へ続く架け橋
ダイアナ・ザビャロヴァが高校生活の終盤を迎えたとき、彼女の心にはすでに「私はボウリングで生きていく」という強い意思がありました。けれど、その具体的な道筋はまだ見えていなかったのです。
高校卒業後、何をするのか。ラトビアにそのまま残って競技を続けるのか、それとも学業に進むのか。それとも――?
そんな彼女に一筋の光を与えたのが、当時のコーチ、シド・アレンのひとことでした。
「アメリカには、大学で学びながらボウリングもできるプログラムがあるんだよ。」
それまでの彼女にとって、アメリカは「遠い夢の国」でしかなく、ましてや「大学でボウリングをする」なんて想像すらしていませんでした。彼女の中でアメリカとボウリングが結びつく瞬間は、そのコーチの言葉が初めてだったのです。
不安と期待が入り混じる中で、彼女は留学の道を選びます。ボウリングの腕を磨きながら、学業にも励むという二重の挑戦――しかもそれは母国を離れて、単身で大西洋を越える決断でもありました。
彼女が選んだのは、フロリダ州にあるウェバー・インターナショナル大学(Weber International University)。当時は新設されたばかりのプログラムで、まだ歴史も浅く、知名度も高くはありませんでした。
それでも彼女がこの大学を選んだ理由は二つありました。
1つ目は「天候」。
ラトビアの厳しい冬に慣れていたダイアナにとって、フロリダの常夏のような気候は夢のようでした。アメリカ中の大学からスカウトを受ける中で、「ウィチタ」「ネブラスカ」といった名門もありましたが、彼女は迷わずこう思ったのです。
「寒そうだから、フロリダにしよう。」
2つ目の理由は「Kegelトレーニングセンター」の存在。
ボウリング界では名の知れたトレーニング拠点がすぐ近くにあるというのは、彼女にとって理想的な環境でした。
こうして始まったアメリカ生活は、文化も言葉も違う中での挑戦の連続でしたが、チームメイトやコーチとの出会いが、彼女にさらなる成長をもたらしました。
● 2013年、USBCクイーンズ初優勝 — 偶然の出場が運命を変える
大学生活を順調に過ごしながら、ダイアナは母国ラトビアの代表としても国際大会に出場し続けていました。
2013年、彼女の目標は「世界女子選手権(World Women’s Championships)」での活躍。
会場はラスベガス、アメリカ。世界中から集まる強豪たちとの戦いに、彼女は全神経を集中させていました。
そして、見事チーム・ラトビアとして銅メダルを獲得。
このメダルは、ラトビアのボウリング史に再び名前を刻む快挙となり、彼女の代表としての誇りをさらに深めました。
しかし、この物語には“もうひとつの大会”がありました。
世界選手権のすぐ後に開催された、USBCクイーンズ(USBC Queens)。
全米で最も権威ある女子ボウリングの大会のひとつで、世界中のトップ選手が集う舞台です。
「せっかくだし、出てみようかな。」
彼女のその決断は、あくまでも「ついで」でした。
世界選手権に出場していたことがなければ、おそらく出場していなかった大会――しかし、その偶然が彼女の人生を大きく動かすことになるのです。
初出場、しかも何の期待もプレッシャーも持たず臨んだ大会。
にもかかわらず、ダイアナはラウンドを次々と勝ち抜き、気がつけばテレビ決勝の舞台に立っていました。
そして決勝の対戦相手は、ボウリング界のレジェンド、リーアン・ホルゼンバーグ(Lianne Hulsenberg)。
彼女が幼いころから憧れていた、アメリカ女子ボウリング界の象徴的存在との一騎打ち。
「信じられなかった。でも、だからこそ怖くなかった。」
初めてのテレビ放送の舞台にもかかわらず、ダイアナは見事な集中力で相手を圧倒し、クイーンズ初優勝。
しかも、その大会が自分の「人生初の個人戦テレビ出演」となったのです。
この勝利は、全米だけでなく世界中のボウリングファンに衝撃を与えました。
一夜にして彼女の名前はSNSやメディアを駆け巡り、スポンサーのオファーも相次ぎました。
「あんなに大きな大会だとは知らなかった。ただ、目の前のゲームを楽しもうと思っていただけ。」
その無邪気さと強さが、多くの人の心を掴んだ瞬間でした。
● 尊敬する存在とアイドル — 少女の心に火を灯したヒロインの姿
ダイアナにとって、ボウリングは単なる競技ではなく、生き方そのものを教えてくれるものでもありました。
そして彼女の“理想像”となったのが、アメリカの名ボウラー、ディアンドラ・アズバティ(Deandra Asbaty)です。
彼女が14〜15歳のころ、ディアンドラはすでに世界各国を飛び回り、トーナメントで華麗なプレーを披露していました。
その姿をヨーロッパの大会で初めて見たとき、ダイアナは衝撃を受けたと語っています。
「こんなにも美しく、強く、堂々とプレーする選手がいるなんて…。まさに“憧れのすべて”だった。」
試合中の表情、ストライクを決めた後の仕草、観客との距離感――すべてが完璧に映ったのです。
大会から帰国したダイアナは、すぐにGoogleでディアンドラの写真を検索し、何枚もプリントアウトして自分のロッカーに貼り付けました。
レーンに立つ前、ロッカーを開けるたびに彼女の笑顔と目が合う。その瞬間、「私もいつか、あの場所に立つんだ」と心の中で誓っていたのです。
このように、彼女にとっての“アイドル”は、ただの有名人ではありませんでした。
「未来の自分の姿」そのものであり、“希望”の象徴だったのです。
そして時が経ち、今やダイアナ自身が、世界中の若いボウラーたちにとっての“憧れの存在”になっていること。それは、彼女があのロッカーの中に貼った写真と同じように、誰かの心に火を灯している証です。
● PWBAツアーの誕生と本格参戦 — 女子ボウリング復活の幕開けに乗って
大学卒業後も、ダイアナ・ザビャロヴァの頭の中にあったのは「ボウリングで生きていきたい」という明確な夢でした。しかしその時代、女子プロボウラーとしてフルタイムで活動できる環境は、まだ限られていたのです。
当時、アメリカ国内では男子のPBAツアー(Professional Bowlers Association)は存在していましたが、女子プロツアーPWBA(Professional Women’s Bowling Association)は休止状態。
つまり、ダイアナがプロとして活躍できるステージは、男子の舞台しか残されていなかったのです。
「それなら、男子と戦うしかない。」
そう自分に言い聞かせ、彼女はPBAに挑戦します。
しかし、フィジカルの違い、スピード、回転数など、男女の間にはやはり壁がありました。勝てない試合が続き、成績も思うように出ず、「本当にこれが自分の道なのか」と、迷いも生まれていきました。
そんなとき、転機が訪れます。
2015年、PWBAツアーが正式に復活。それは、女子プロボウラーとしての夢を追い続けていたダイアナにとって、まさに“救いの光”でした。
「これは、神様がくれたチャンスだと思った。」
彼女はすぐに参戦を決意。毎週違う街を転戦する過密スケジュール、タフな対戦相手たち――それはまるで、毎週が「ミニ・クイーンズ」のような戦い。
それでも彼女は、笑顔で言いました。
「やっと、夢に挑める場所ができた。」
このPWBAツアーこそが、彼女のプロとしてのキャリアを本格的にスタートさせた舞台だったのです。
● 栄光とスランプの波 — トップを極めた者が抱える葛藤
プロツアーに参戦してからのダイアナは、まさに順風満帆なスタートを切ります。
1年目には早くも優勝を飾り、周囲からは「天才ボウラー」との呼び声も高まりました。クイーンズでの栄光、アメリカとヨーロッパでの実績、洗練されたフォーム、美しいプレースタイル――すべてが称賛の的となりました。
そして2017年、彼女は再びUSBCクイーンズで優勝。
これは、史上数少ない「クイーンズ複数回優勝者」となる快挙であり、彼女のキャリアにおける頂点の一つでした。
しかし、その栄光の裏で、彼女の内面には静かに変化が起きていました。
「勝つことが“当然”のように思われるようになった。」
かつては「無欲の挑戦者」だった自分が、いつのまにか「勝って当然」と見られる存在になっていた――その変化が、知らず知らずのうちに彼女の心を縛っていったのです。
どんなに努力しても、優勝できなければ「失敗」とみなされる。
自分自身でも、「なぜ勝てないのか」と自問自答を繰り返す。
結果が出ないと、自信は崩れ、モチベーションも低下していく。
「勝てないと、自分の存在価値すら疑ってしまうようになった。」
そう語る彼女の言葉には、華やかな舞台の裏で揺れ動く心の痛みがにじんでいます。
勝利によって得られる名声と注目。そして、勝利できなかった時の孤独と不安。
ダイアナは、その両方を全身で味わってきました。
● 支えと再起 — 暗闇の中で見えた、光と愛
そんなダイアナにとって、最大の試練が訪れたのは2020年のパンデミックでした。
世界中の大会が次々と中止され、PWBAツアーも開催中止。
彼女の日常は、突然すべて奪われてしまいました。
「自分の夢が、誰かの手で急に消されたようだった。」
ボウリングができない日々の中、追い討ちをかけるように彼女を襲ったのは、最愛の祖母の死でした。
幼少期から彼女を育ててくれた祖母が、入院中に亡くなったのです。
しかし、コロナによるロックダウンのため、彼女はラトビアに帰国すらできませんでした。
祖母の最期に立ち会うことも、葬儀に出ることもできず、その無念と喪失感は、彼女を深いうつ状態へと突き落とします。
「私はもう、ボウリングをやめるべきかもしれない。」
そう思った日もありました。
けれど、そんな彼女を支え続けた存在がいました。
それが、現在の夫のEJ Nenichkaです。
彼は、苦しむダイアナのそばに寄り添い、言葉ではなく、存在そのものが彼女を支えてくれました。
また、母親も「あなたには、まだできることがある」と何度も励ましの電話をくれたのです。
「家族とEJがいなければ、私は本当にボウリングをやめていたかもしれない。」
そう振り返る彼女の表情には、感謝と再生の想いが溢れていました。
そして2021年、再びツアーが再開されると、彼女は“あの日”の情熱を取り戻し、コートに戻ってきました。
2023年、彼女はついに復活優勝を果たし、2018年以来のタイトルを獲得。
「なぜ調子が良かったのかと聞かれたら、私はこう答えます――“幸せだから”って。」
勝利の理由は、テクニックでも道具でもありませんでした。
「心が整っていること」。それこそが、彼女にとって最も重要な“武器”だったのです。
夢を追い続ける力と支えてくれる人の存在
ダイアナ・ザビャロヴァの歩んできた道は、才能や結果だけでは語り尽くせない、幾多の感情と決断が重なった“生き様”そのものです。どんなに恵まれた才能があっても、夢を追い続けるには、強靭な精神力と、揺るがない情熱、そして何より「支えてくれる存在」が不可欠です。
彼女は、ボウリングがまだ根付いていなかったラトビアで道を切り開きました。成功だけでなく、何度も挫折を経験しながらも、自分自身を信じ続け、進む道を選んできたのです。思い描いた通りにいかない日々、結果が出ずに自信を失う瞬間、それでもレーンに立ち続けることを選んだのは、ただ勝ちたいからだけではありませんでした。
自分のプレーで国を代表するという誇り、幼い頃から憧れてきた選手たちのようになりたいという強い想い、そして何より家族やパートナー、コーチ、ファンといった「支え」があったからこそ、彼女は幾度も困難を乗り越えることができたのです。特に2020年のパンデミック中、心の支えであった祖母を亡くし、競技生活も奪われた彼女は、深い悲しみと無力感に襲われました。それでも立ち直れたのは、周囲の人々の温かさと理解があったからに他なりません。
そして2023年、結婚という人生の節目を迎え、彼女は再びボウリングへの情熱を取り戻します。「幸せだったから、また勝てた」と語るその言葉には、アスリートとしてだけでなく、一人の人間として大切なものに気づいた彼女の真実が込められています。
夢を追うということは、ただ前に進むだけではなく、立ち止まったり、戻ったり、時には誰かに背中を押されながら進んでいくこと。ダイアナ・ザビャロヴァの物語は、私たちにその大切さを静かに教えてくれます。スポーツの枠を越えて、人としてどう生きるか、どう夢を叶えるか――その姿は、今を生きる多くの人々にとっての希望となるに違いありません。
彼女の挑戦は、これからも続きます。そして私たちは、これからもその軌跡を応援し続けたいと思います。
