偶然から始まった夢の道:Julia Bondが歩んだボウリング人生
偶然から始まったボウリング人生、その先にあったものとは
きっかけは、ただ父親についていったボウリング場だった。
それが、人生の方向を大きく変えるほどの出会いになるとは、当時11歳のJulia Bond自身も、そして父も想像していなかっただろう。
ボウリング一家でもなければ、特別な血筋があったわけでもない。けれども、「楽しそう」という純粋な気持ちが、やがて競技への情熱へと変わり、ついにはプロツアーの頂点へと駆け上がる力になっていく。
本記事では、ジュリア・ボンドがどのようにしてボウリングと出会い、挑戦を重ね、成功と葛藤の狭間で何を感じ、今どんな未来を見ているのか――
その“軌跡”を丁寧にたどっていく。
彼女の物語には、夢を追いかけることの価値と、それを支える家族や仲間の存在の尊さが詰まっている。
■ 父との時間がくれた「最初のきっかけ」
Julia Bondがボウリングというスポーツに出会ったのは、決して特別なきっかけではなかった。
彼女が11歳のとき、父親が会社の同僚に誘われて、地域のボウリングリーグに補欠メンバーとして参加することになったのが始まりだった。
「どうせやるなら本気でやる」。そう口にした父は、マイボールを購入し、ボウリングシューズを揃え、真剣に練習を重ねていった。
その姿は娘のJuliaにも大きな影響を与えた。
最初のうちは、ただ父の隣に座ってプレーを見ているだけだった。けれど、ボールがピンを倒すたびに響く音や、レーンの光の反射、投球に集中する人々の姿に、彼女は自然と引き込まれていった。
父もまた、彼女の好奇心を見逃さず、「あの人の足の動き、見てみな?」「あの人の腕の振り方、まねしてみたらどうかな?」と一緒に観察しながら教えてくれた。
親子でレーンに立ち、フォームを試し合い、ピンが倒れる爽快感を共有する――。
その時間が、Juliaにとってただの「スポーツとの出会い」以上に、かけがえのない“父との思い出”として刻まれていった。
■ 本格的な練習との出会い
そんな日々が続いていたある日、ボウリング場のプロショップの店主がJuliaと父に声をかけた。
「いつも仲良く練習してるね。娘さん、本当に楽しそうだね。よかったらレッスン、受けてみない?」
その誘いは、Juliaにとって思いもよらぬ“世界の扉”を開くことになる。
それまでの彼女は、スポーツに対して特別な経験があったわけではなく、何かに本格的に打ち込んだこともなかった。けれど、「やってみたい」という気持ちはすぐに湧き上がった。
最初は「習い事」感覚だったレッスンは、次第に彼女に競技の楽しさと奥深さを教えてくれた。
正しいフォーム、投球のリズム、ピンの配置に合わせた戦略――
目の前に新しい世界が広がっていくたびに、Juliaの中で“もっと知りたい”“もっと上手くなりたい”という欲が芽生えていった。
この出会いを境に、彼女のボウリング人生は「遊び」から「目標」に変わり始める。
■ ボウリング一家じゃなかった。でも惹かれた
Julia Bondの家族は、いわゆる“ボウリング一家”ではなかった。
父も祖父母も、競技としてボウリングに取り組んだ経験はなく、せいぜい週末にテレビで試合を眺める程度。昔はテレビチャンネルも限られていたから、土曜日の朝にボウリングが映っていれば、なんとなく見る。そんな程度だった。
「血筋でも、伝統でもない。ボウリングは、私がたまたま惹かれた世界だった」。
Juliaはそう語っている。
それでも、彼女はこの偶然の出会いを、運命のように大切にしている。
家族に強いルーツがなかったからこそ、そこに自由があった。
そして、誰かに強制されたわけでもなく、自分の足で見つけたからこそ、その魅力に素直に惹かれていった。
「なぜか夢中になって、やればやるほど楽しくなって…」
それがJuliaにとってのボウリングだった。始まりは偶然。けれど、そこには確かな情熱と、彼女自身の意志があった。
■ 高校でのチーム経験と大学へのステップ
Julia Bondのボウリングキャリアは、早い段階で“個人競技”としての魅力に惹かれたことから始まった。しかし高校に進学してからは、初めて「チームスポーツ」としてのボウリングの魅力を実感するようになる。
ボウリング部に所属したことで、仲間と共に目標を持ち、励まし合い、勝利を分かち合うという新しい楽しさに触れた。試合の前に皆で戦略を立てたり、励まし合ったり、勝っても負けても一緒に喜び、悔しがる――
そうした経験が、彼女の中に「一人で闘うボウラー」ではなく、「支え合うチームプレイヤー」としての視点を育てていった。
個人戦にも積極的に参加していたJuliaは、あるとき仲間から「ボウリングで大学の奨学金が取れるかもしれないよ」と教えられる。
それまで彼女にとって大学進学は、決して当たり前の選択肢ではなかった。家庭の経済事情もあり、「もし奨学金がもらえなかったら、大学には行かないかもしれない」と思っていたという。
しかし、ジュニアトーナメントでの成績が上がるにつれて、少しずつ可能性が現実味を帯びてくる。
そして2013年、彼女の運命を大きく変える出来事が起こる。ジュニアゴールド選手権での優勝である。
この勝利は、ただのタイトル獲得ではなかった。それまで地元イリノイを中心に活動していたJuliaが、全国的な注目を浴びるきっかけとなったのだ。
■ ネブラスカ大学と運命の出会い
「どこに進学するか」を決めるため、Juliaは自分の投球映像を複数の大学に送り始める。
「前、後ろ、横からの映像。スペアショットも忘れずに」――それが、大学ボウリング部への応募で求められる基本的なフォーマットだった。
当時17歳の彼女の頭にあったのは、「とにかく強いプログラムに行きたい」というシンプルな願いだった。
ボウリングで有名な大学といえば、ネブラスカ、そしてヴァンダービルト。どちらも全国レベルの強豪で、競争は激しい。
そんな中、ジュニアゴールドでの活躍が功を奏し、ネブラスカ大学のコーチ陣が彼女にコンタクトを取ってくる。
実際に大学を訪れたJuliaは、その雰囲気と人々の温かさにすぐに惹かれた。
「ネブラスカ州のリンカーンという町は、州都なのに“大きすぎない”温かさがある。私が生まれ育ったイリノイ州の町とどこか通じるものがあって、自然となじめた」と彼女は振り返る。
さらに、ネブラスカ大学のスポーツ部門のサポート体制も決め手のひとつだった。
「アスリートとして本当に大切にしてくれる場所。ここなら、ボウラーとしても、人としても成長できる」。
その確信が、彼女をこの大学へと導いた。
■ PWBAツアー再始動と“夢の続き”
Juliaが大学に入学した当初、アメリカ女子プロボウリング(PWBA)ツアーは活動休止状態だった。
そのため彼女は、「大学での競技が終わったら、きっとボウリングは趣味になる」と考えていたという。
「社会人になって“ちゃんとした仕事”に就く。それが当たり前だと思ってた」。
そう話すJuliaにとって、ネブラスカでの競技生活は、あくまで「学生生活の延長線」に過ぎなかった。
しかし――
大学2年生のとき、PWBAツアーが復活するというニュースが舞い込む。
「夢に終わりがあると思っていたところに、突然光が差したようだった」。
彼女の中に「このまま競技を続けられるかもしれない」という新たな希望が生まれる。
その後、両親と話し合い、「卒業後3年間、ツアーに挑戦してみよう」という決断をする。
「うまくいかなくてもいい。でも、やらずに後悔はしたくなかった」とJulia。
ツアーに参加するというのは、生活スタイルも、心構えもまったく異なる新たな挑戦だった。
遠征・費用・成績へのプレッシャー――そのすべてを受け止めながら、彼女は再び“自分の夢”と向き合う。
■ コロナ禍を乗り越え、2021年の大躍進
卒業後、Julia Bondは両親と「まずは3年間、ツアーに集中してみよう」と約束し、プロとしてのキャリアをスタートした。1年目のルーキーシーズンは「良くも悪くも“平均的”」だったが、彼女にとっては大切な学びの期間となった。
しかし、翌年――2020年。
誰もが予想していなかったCOVID-19パンデミックが、彼女の2年目のシーズンすべてを奪っていく。
「何もできなかった。試合も遠征も中止。家でトレーニングするしかなかった」と語るJuliaは、その空白の1年をただ“無”として過ごしたわけではない。
自宅でできる限りのトレーニングを続け、フォームの見直し、メンタル強化、自分と向き合う時間にあてた。
そして2021年――
そのすべての努力が、一気に結果として花開く。
この年、JuliaはPWBAツアーで3つのタイトルを獲得。中でも「USBCクイーンズ」でのメジャー初優勝は、彼女のキャリアにおける最重要トロフィーとなった。
「不思議な週だった。細かいことはあまり覚えてない。でも、すべてがピタリとはまっていった」と彼女は語る。
周囲のスタッフやコーチたちは、その勝利を予感していたという。
「初日から落ち着いていて、まるで優勝する運命だったかのように見えた」と言われたことが、彼女の胸に強く残っている。
ブランクからの復活、そしてキャリアの頂点。
2021年は、Julia Bondが「プロボウラーJulia Bond」として真に覚醒した年だった。
■ 他者との比較ではなく、自分を見つめる
しかし、3タイトルを手にして以降、Juliaの心には新たな葛藤が生まれ始める。
それは“結果を出した者に訪れる、静かな谷”だった。
「頂点を経験してしまうと、そのあとは何をやっても物足りなく感じる」。
自分の中で理想が高まり、結果が出ないと、どうしても落ち込んでしまう。
そして最もつらいのは、周囲の成功と自分を比べてしまうことだった。
「SNSを見て、他の選手が優勝してるのを見ると、もちろん嬉しいし、お祝いしたい。でもどこかで、“どうして私は勝てないの?”って、自分を責めてしまうんです」。
そんな風に、自分の存在価値を他者の成功と比較してしまうことは、どのアスリートにもある心の壁だ。
けれどJuliaは、その中で学びを得ていく。
「比較は、喜びを奪う“泥棒”だっていうけど、本当にそう。でもそれに気づけたことが、すでに成長だと思う」。
自分の歩みに誇りを持ち、自分の速度で進む――
それこそが、長く競技を続けるために最も大切な「心の在り方」なのだ。
■ これからの未来に向けて
「今は、正直言って谷の中にいると思う」。
Juliaはそう率直に語る。過去のようにタイトルを量産できているわけでもないし、毎試合で優勝争いに絡んでいるわけでもない。
でも、だからこそ見えてくるものもある。
「今の私は、精神的にすごくバランスが取れてる。焦らない自分、感情を受け止められる自分がいる」。
これまでのJuliaなら、悪いスコアを出した日には落ち込んで、感情を引きずることもあった。
けれど今は、「たとえうまくいかなくても、それを学びに変える力」が身についているという。
「次に輝く瞬間がいつ来るかはわからない。でも、必ずまたチャンスは来ると信じている」。
その言葉の奥には、過去の栄光にも、今の葛藤にも真摯に向き合ってきた者だけが持つ、静かな自信があった。
「それが来週かもしれないし、来月かもしれない。もしかしたら来年かもしれない。でも、私はそれを迎える準備ができている」。
Julia Bond――
彼女は今も、夢の途中にいる。
■ おわりに:夢を追い続けることの価値
Julia Bondのボウリング人生は、計画された道ではなかった。
彼女がこのスポーツに出会ったのは、父親の趣味に付き添っていた偶然から。そこには運命的な「きらめき」があったわけではない。ただ、レーンの上で父と一緒に過ごす時間が楽しくて、何かを真似してみたくて、ただ純粋な好奇心から始まった物語だった。
けれど、彼女の歩みはその後、数え切れない努力と葛藤、そして挑戦と再起に満ちたものへと変わっていく。
ジュニアゴールドの優勝、ネブラスカ大学への進学、PWBAでのプロ挑戦――
そのひとつひとつは、偶然の延長ではなく、自分で掴み取った現実だった。
しかし彼女は、それらの成功にすがらない。
むしろ、「うまくいかない時にこそ、人は本当の意味で試される」と知っている。
勝てない時、思うように投げられない時、自信が揺らぐとき――
そんな谷の時間をどう生きるか、どう乗り越えるか。
そのプロセスこそが、彼女にとって「夢を追い続ける価値」を教えてくれるものだった。
また、彼女の背中を押してきたのは、常に“支えてくれる人たち”の存在だった。
父、母、コーチ、仲間、そしてファン。
ひとりで闘っているように見えるリンクの上にも、たくさんの無言の応援がある。
それに応えたいという気持ちが、Juliaの心に火を灯し続けている。
「夢を追うことは美しい。でもそれは、甘く優しいものだけではない。悔しさや不安、自分との対話を何度も繰り返しながら、それでも前に進む強さのことだと思う」。
そう語るJulia Bondは、ボウリングのスコアだけではなく、人生そのものにおいて“勝ち続けている”選手だ。
夢の途中には、期待と落胆が交錯し、不安と希望が共存する。
でもその中で、たったひとつ確かなのは、「それでも、歩き続ける人が最後には物語をつくる」ということ。
Juliaの物語は、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが新しい章の始まりなのかもしれない。
彼女が次にどんな一投を放つのか――
その瞬間を、私たちはこれからも見届けていきたい。