
【訃報】伝説のボウラー、レイ・ブルースさん死去
黄金時代を築いた「バドワイザーチーム」最後の一人、97歳で永眠
ボウリング界のレジェンド、静かに旅立つ
2024年4月11日、米国ボウリング界の生ける伝説、レイ・ブルース(Ray Bluth)さんが97歳で永眠されました。彼は、「バドワイザーチーム」として知られる黄金時代の象徴的存在であり、チーム最後の生存メンバーでした。彼の死により、ボウリング史に名を刻んだ5人のヒーローが、天国で再び再会を果たしたことになります。
レイ・ブルースの栄光と人間味あふれる人生
■ 黄金の「バドワイザーチーム」と歴史的快挙
レイ・ブルースさんの名を語るうえで欠かせないのが、伝説の「バドワイザーチーム」の一員としての活躍です。1950年代、アメリカのボウリング人気が頂点に達する中、ブルースさんを含む5人のスター選手がチームを結成。メンバーにはドン・カーター、ディック・ウェーバー、トム・ヘネシー、パット・パターソンといった錚々たる面々が並びました。
中でも1958年3月12日、ミズーリ州セントルイスの「フロリス・レーン」で行われた試合は歴史に残る一夜となりました。この日、彼らはチームシリーズ3,858点という驚異的なスコアを叩き出し、当時の世界記録を樹立。実に35年もの間破られなかったその記録は、まさに「黄金時代」の象徴でした。
特筆すべきはブルースさん自身のパフォーマンスです。この記録達成試合で、彼は300点のパーフェクトゲームを含む834点という個人スコアを記録。36投中33回ストライクという、当時の世界でも類を見ない精度を誇りました。彼の精密さと集中力は、チーム全体の快挙を陰で支えていたのです。
■ 数々の栄誉とPBA創設メンバーとしての功績
ブルースさんは、その実績に裏付けられた数々の栄誉を手にしています。1973年にはアメリカボウリング会議(USBC)殿堂入りを果たし、1975年にはプロボウラーズ協会(PBA)の初期殿堂入りメンバーにも選出。これは、彼の同僚であるウェーバー氏やカーター氏と並ぶ、まさにボウリング界のパイオニアたちへの称賛でした。
彼のキャリアにおいて特筆すべきは、その安定した成績です。PBAツアーではおよそ50回のトップ5入りを果たし、そのうち16回は準優勝、17回は3位という安定感。なかでも1969年の「バッカイ・オープン」では、ネルソン・バートン・ジュニアを破って優勝を飾り、翌年には同大会で再戦し惜しくも準優勝となりました。
また、PBA外でも高い評価を受け、テレビ番組「Make That Spare」や「Championship Bowling」での勝利により、当時としては高額となる賞金を獲得。その実力は、あらゆるステージで証明されてきたのです。
■ 愛されキャラ「ブローパー」としての素顔
華やかな実績とは対照的に、ブルースさんの人柄は実に温かく、謙虚でした。仲間内では「ブローパー(Blooper)」や「ブロープス(Bloops)」と呼ばれ、親しみを込めたニックネームが自然と定着。厳しい競技の世界にありながらも、彼は常に周囲との信頼関係を大切にし、チーム内の「絆」を何よりも尊重していたのです。
その独特なボウリングスタイルも話題の的でした。右目の上あたりにボールを構え、肩の近くでカップ状に保持したのち、短めのバックスイングから力強く放つという独自のフォームは、まさに唯一無二。あまりに特徴的だったため「ピーカブースタイル」と呼ばれることもありました。
若手ボウラーの中には、彼のフォームを真似する者も多く、PBAチャンピオンのバリー・アッシャー氏は「子どもの頃、彼のフォームを完全にコピーしていた」と語るほどです。
それでもブルースさんにとって最も大切なものは「家族」でした。ツアーに出る際には、家族全員でステーションワゴンに乗り込み、わずかな荷物とサンドイッチを詰めたクーラーボックスを持って、数週間の遠征へ。成功の裏には、そんな家族との温かい日常がありました。
ボウリングよりも大切にした「家族」との絆
ブルースさんは、ボウリングでの成功に満ちた人生を送りながらも、何よりも家族を誇りにしていました。亡くなるその日も、1959年に自ら建てた自宅で、妻キャロルさん(結婚71年)や子どもたち、孫、ひ孫に囲まれながら静かに息を引き取りました。
葬儀は数週間後に予定されており、彼の遺灰は祖先と共に安置されるとのこと。場所は未定ながら、ボウリング場での追悼イベントも検討されています。それは、ボウリングに人生を捧げた彼への、最もふさわしい送り方かもしれません。
バドワイザーチームの誇りを胸に、そして家族への深い愛と共に、レイ・ブルースさんは永遠のレーンへと旅立ちました。
心よりご冥福をお祈りいたします。